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無駄に消費されること

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会社や団体の忘年会・新年会が無くなる。
これを良しとする人は増えてきた。
アルコールの復権を願う人でも団体での飲みを否定する人が増えている気がする。

「意味がない」
「無駄」
「飲みたい人と飲みたい」

まぁそりゃそうだろう。
俺も会社飲みは無駄と思ってるけど、つまらない飲み会だったら楽しく変えれば良いのではないだろうか?近年は上司も部下もつまらない飲み会はイヤだと思ってる人多いから、楽しくするための工夫は歓迎されるよ。

無駄がなくなったら消えるものがたくさんあって、そして酒は筆頭に挙げられるわけです。趣味・実益のものでも究極にまで突き詰めると殆どが無駄だし、いずれ消えゆくわけですよね。
もっと言えば、社会にとって己らが有益なのか?というのはあるのではないか。
組織に属するのであれば組織が存続する無駄と思えるものにも付き合う必要はあるだろうし、数々の無駄を許すことが自身の存続につながるのではー?とか思わんでもないのよね。

そしてさらにこのご時世、テレワークで姿が見えなくなると繋がりが希薄になる。
希薄な存在が完全に空気になったとき、己は果たして社会に必要とされるだろうか?「無駄」と言ってしまった飲み会と同じ平野に立ってしまうのではないだろうか?

ー無駄があるからこそ存在するものはある
ー無駄をなくしたとき消えるものがある

「残るものが実力だ」と言ってしまえばそうなのかもしれないが、おそらく俺は消えるだろうし、多くの人々も、酒も消えるだろう。
そして我々の存在が消えたとき、実力で立場を勝ち取った何かを支持するのか?それは謎である。

多くの人が望んでいた多様性はその時点をもって終了するのだ。
売れるもの以外の全て消える世界が完成してしまうのだ。

「理想」だけを突き詰めると物事は単純化する。
しかしよく考えると「理想」が存在する土壌は、混沌こそが一番望ましかったのではなかろうか?

存在しないものは認識することができない。
存在しようとも視界の外にあるものは気に留められない。

日本酒の消費がー、焼酎の消費がー。
突き詰めると裾野の無駄層が増えるほど消費につながると思うのよね。

家の近所にある誰が入っているかわからない廃墟みたいな居酒屋がある。
しかし人知れずその店を愛してる人たちがいる。
そういう無駄と思わしき光が一つ一つ消えたとき、見える景色はどうなっているだろうか?
ひとつひとつの光には意味はなくとも、光が多いからこそ夜景は美しく、夜景として存在しうるのだ。
夜景として認識できなくなったそれは市場として成り立つであろうか?

 

そういうことを考えながら、どうでもいい酒を飲んでおります。