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日常:半額になった大関を飲み干しながらなんかテキトーに語る

大関を飲み干した。
なんか結構良かった。
確実に「ウマい」わけではなく、どちらかと言えばむしろ「マズい」寄りなのかもしれんが、必ず期待に答えてくれる大御所って感じで、今の自分にはすごくフィットした。

 

そういや先日こういうこと書いたな。

congiro.hatenablog.com

これの続きみたいな話であるがなんかテキトーに書く。
メモ帳に箇条書きにしていたものをテキトーにつなげただけなので、文章としての体裁は取れてないがcongiroしぐさなので気にするな。

 


 

人間には”慣れ”というすごい機能がついている。
それはどんな感動的な出会いであろうがどんなに素晴らしい出会いであろうが、慣れが作動するとそれはニュートラル付近の出来事になってしまう(ことがある)。
幾度と経験しているとその素晴らしい感動は薄れ、ニュートラルな出来事になりがちである。
では逆に悪い意味での感動はどうだろうか。
これも幾度となく経験していると、”慣れ”という機能が作動することによってやはりニュートラルな出来事へと変化してしまう。

そして”慣れ”の最も恐ろしい?面白い?ことは、悪い経験がニュートラルに持っていかれた場合評価が上がってしまう(ことがある)という点である。

だからこそ悪い経験である「マズい」は、コントロールできればものすごく強いものなのである。昔の酒はまずかったと言うが、コントロールされて作られていたとしたらそれはすごいことだと思わないだろうか?「マズい」と言ってもバランスが崩れているそれではなく、計算され作られた「マズい」なのである。

それは”慣れ”が発動し、マイナス地点からニュートラルを超えプラスまで引き上げられることを想定していたのではないだろうか?
だからこそ考え抜かれた「マズい」には意味があると俺は考えている。

「マズい」なのだけど、”慣れ”が発動することにより「もうこれでいいや」になり、そしてそれが「もうこれじゃないといけない」というところまで変化する。
これは正直な話、「マズい」だけが持つ力だと俺は考えている。
人間も割と同じじゃないだろうか。
素晴らしい魅力のある人よりも、悪友の方が自分にとってフィットしやすく長い付き合いになるんじゃないか?
フィットした「マズい」はだいたいの場合つきあいの長い友になる。
それを考えると、「ウマい」酒は、ウマいことをアピールするのは構わないが、「マズい」を引き合いを出すのは悪手なのではと俺は考えているのよな。

 

先ほどあげた先日のエントリで「近年は毒の形が変わった」と俺は述べたが、近年はスタートがマイナスでなくゼロのフラット地点から始まってることが多いような気がしている。
かつての酒は「マズい」のに飲まれていた。それはなぜか?伝達者がいたからである。
上の世代だったり横のつながりだったり、昔は強制的な飲み会が存在したから伝達システムが存在していた。そしてそれはある意味バンジー的な意味合いを持っていたからこそ媒体としては安酒やタバコやちょっとした悪事のような「マズい」物事を共有することが肝要であった。
現在はそういう強制的な半ばハラスメントになること薄れている時代である。
だからスタートがマイナスの場合、伝達者がいないとただのマイナスでしかないのである。そこで近年多く見られるのがゼロスタート、即ちフラット地点の毒である。
伝達システムが存在しない時代の新しい毒の形である。
それはコスパ・タイパに象徴されるようなものの時代の変化だと感じている。
これは言語化されて再現しているのかよくわからないが、現代人がそれを作るというのはもはや本能的に時代にそう仕向けられているのではないかとすら感じる。

昔の毒は毒そのものであった。しかし現代の毒は虚無である。
それはスタート地点変化の話である。

 

「ウマい」というのは感動を維持するために、常に新規性が求められてしまう場合がある。もしくは慣れを麻痺させるために多種を用意したり、様々な準備が必要になる場合がある。それが果たして「マズい」より優位なのか?というとちょっと謎な時と場合がある。

 

「想像を超える何かに出会いたい」という欲求は当然ある。
また、「想像通りのものであって欲しい」という欲求もある。
しかし、後者のほうが『安心感』からは距離が近いことが多く、それは多くの場合で「ウマい」寄りではないことが多いよな。

 

まぁここまで書いたけど、「ウマい」も「マズい」も俺は等しく(?)価値を感じております。まぁどうせやるならウマいほうが良いけどよ!w