あのcongiroが、酒と旅と○○を大いに語る!ブログ!

酒と旅と散歩とか日々の記録ブログです

日本酒に感動体験や刷り込みはあったか?

※画像と内容は一切関係がない

例えばタバコで良いや。
(違法だけど)中学生や高校生が屋上とかトイレで仲間とタバコ吸ったとしよう。
それって(違法だけど)、その当時の思い出としては強烈なイメージとして残るよな?


例えば、美味くもなんともないジュースがあったとしようや。
子供がお小遣いをためてそのジュースを親に買ってあげたとしようや。
「パパ、ママ、いつもありがとう!」って。
そのジュースは美味しくなかったけど、それ以上の価値を持って伝わるよな?


例えば、一家団欒の中でオヤジが日本酒で晩酌してたとしようや。
それから数十年経って団欒が無くなったとしてもだ、
ふとした時に団欒を通したイメージとして、そこに日本酒があったことを思い出すよな?


『日本酒を飲ませたい』って思ってる人はよ、
「日本酒美味しいでしょ!ホラ飲んで飲んで!」じゃやっぱり伝わらんのよ。
何らかの感動体験との結びつきや日々の刷り込みが無ければさ。


確かにお前らは『美味しい』を提供してくれてはいるよ。
では『美味しい』は感動体験ではないのか?ってことだけどよ、
『美味しい』イベントなんざ今までにもいくらでもあっただろ?
その中で日本酒という存在は、どこの何よりも突出するほど美味かったのか?
他の全てを差し置いても感動的な存在として脳裏に焼き付くほど美味いと言えるのか?


感動体験とは単体のものではなくて、何かとの結びつきだよ。
刷り込みとは日常における連続性の上にあるものだよ。


何かしら物事を定着させようと思うならさ、
感動的な体験や日常的な刷り込み、あるいは本人の能動的な情熱が無ければ有り得ないんだ。
でも後者は期待するモンでもないだろ?
ま、こういうのは日本酒に限ってるわけじゃなくて、何にでも言えるんだけどな。



「日本酒飲んでもらいたい!」って考えるくせに『日本酒飲ませることしか考えてない』のが
繋がりを作ることの出来ない原因になってるんだよ。
日本酒を飲ませたいと思うなら、その先の幸せを描いてあげないとな。


「嗜好品だからみんな思い思いに楽しめばいいんです!」


まぁそりゃその通り、それは俺もそう思うよ。
でもな、そんなにみんな想像性あるわけじゃないんだよ。
日本酒に対して何らかのイメージ創って飲んだりしないんだよ。
残念ながら今の時代で求められているものはそういうもじゃなくなってるんだよ。
それを取り巻く幸せな絵も提供しなければいけなくなってるんだよ。


日本酒を通して得られる感動はなんなんだ?それを考えた事はあるかい?
それを考えずに提供してお終いだっていうなら、むしろ終わるのはお前らのほうだよ。


おわり。